冬の旅・・古き時代への追憶(S45/5)

        1 

 長い旅への第一歩を、あの人は踏み出してしまった。
 否、あの人は社会に巣立つための思い出多き旅なのだろう。しかし私の心の中には、冷たい寒風が何のお構いなしにふきずさみ始めた。
 近くに居ると云うだけで保たれていた私の心の安定は、たったそれだけのために揺れ動き始めた。
 社会に対する不信感から来る不安かも知れないが、私にはそう感ぜずには居られない。
 たった二週間足らずのあの人の行動なのだが、それがあたかも永遠に再会する機会がない様に思われてならない。
 たださへ空虚な今の生活が、何かよりむなしい生活になりそうな予感がしてならない。
 あなたは一体今何を考えて九州への旅を続けておられるのか? 願わくば風に乗せて私に伝えてほしい。
 それによって私は、うつろな生活の中に光を求めることができるだろう。暖かい春の陽ざしが原野を
照らし始めたと云うのに、私は冷たい寒風の中をまるで木の葉のようにさまよい歩く。
 どこからか、あなたのあたたかい光の差し込むことを期待しながら。

        2

 あなたのあの姿、あの美声は いまはない。
 私の心の中に生き続けていたあなたの映像も、あなたの長旅への出発と同時に消え失せて行くような気がする。
 あなたは「冬の旅」観劇の帰途、車中で私の質問に対して「経緯だけでも報告すべきだ。」と云われた。それは何を意味するのだろう? そのことを含めて、私のこれからの人生に新しい力を与えてほしい。今の私はなる程、否全然進歩するところがない。
 願わくば新しい刺激を得て、再び社会の荒波に立ち向かいたい。