50数年振りの金谷

 孫の保育園が運動会だと云うので、岐阜羽島発8時21分のひかりで東上。浜松でタクシーに乗りルンビニープレスクール(保育園)へと言ったが反応なし。パソコンで引き出した地図を見せ・無線連絡をも頼りにようよう目的地へたどり着いた。幼児保育で出番が早く徒競争は終わっていたが、お遊戯とママとの宅急便屋さんはまだこれからと云うことで出番を待つことに。

 トラのマスクをつけたお遊戯は、保育園3年目ともなれば流石活発で写真を撮るのも苦労の連続。・・・・・それでも何とか数カットの動きを写真に収める事が出来た。そういえば去年もトラのマスクを見たことを思い出して、聞いてみたら同じだったらしい。ただ去年は自前の面だったが今年は保育園製のマスクで、来年も使うようで保育園に保管してあるのだそうな。
 その夜はそこで泊まり、翌日は昔住んでいた金谷(今は島田市金谷)を尋ねることとした。

 「金谷の街は変わったよ。」と前に誰かに聴いた事があり、駅前通は大幅に変化していると思って下車したが、駅舎と駅前は大幅に変わっているものの、駅への町並みは殆ど前と変わらなかった。ただ、一部の民家や旅館が姿を消し新しい建物がその一角を占めていた。かって下宿し静岡まで通っていた浅倉家は影も形もなかった。
 茶試時代、専門書類を買っていた佐塚書店は健在で、近代的な建物で営業していた。門前に
は「金谷宿本陣跡」の表示が・・・あの頃とは随分変わったな?と実感しきり。
 若い頃は、歴史などに興味はなく、車もないので日曜と云えば専ら島田市まで出かけ、映画で暇つぶしをしてたっけ。
 今思うと、いま少し地域の歴史に興味を持ち歩いておけば良かったと思うのだが、気が付くのが遅すぎた。
 ただ、歴史的な道路に案内はあるものの詳細が分からないので歩くにも歩けず、駅裏の高台(牧の原台地の入り口)まで登り、JR・国道・高速道の各鉄橋を中心に町並みを写真に収め、芭蕉の句碑を見て下山。
 驚いた事が一つ、当時「健康ランド」と称し営業していた百楽園はまだ健在で送迎のバスが盛んに行き来していた。
 百楽園には思い出がある。その年のお茶は「ミドリヒメヨコバイ」が多発し、2番茶はほぼ全滅であった。試験研究は栽培や加工には力を入れるが病害虫は付けたりで余り力が入っていなかった。酒の席で、しかも場長の前で病害虫の試験など不要だろう発言をしてしまい、胸ぐらを捕まれてYシャツの全部のボタンをちぎられた。
 暫くして、農試への転勤を命ぜられた。農試へ行くことに成っていた後輩には今でも頭が上がらない。ごめんなさいね。
  東海道の石畳や、茶伝来の師「栄西禅師」の碑については話や新聞記事で知っていたが訪れたことがないのでタクシーで向かった。牧の原公園として整備されその一角に禅師が牧の原を一望するかのように建っていた。茶畑をはさんで、隣に近代的な建物が建っていたが・・・野菜試験場茶業部か?
 帰りは石畳の通りを下山。金谷まで歩くことにした。ただ位置は分かるが結構曲がりくねった国道は歩きでがあるため「バス停」で時間を確認。丁度通過時間の為暫く待って居たが、それはそれ田舎のバスで一向に姿を見せない為再び歩き始めた。
 午後の一時で時間もなく、余り歩けなかったがもう一度ゆっくり歩く時間を作りたいなと考えつつJRで浜松に向かった。
 大井川鉄道蒸気機関車にも載る機会があればなと思いつつ。