古傷が騒ぐ(3)ふに落ちないこと

 モミ医者に通っていた頃・・・森屋までなぜ歩いていたか?
 確か大学に入った29年には、岐阜バスが開通していたが、運賃が高いからと弘法口まで歩き、新岐阜経由の名鉄で大学前まで通学していたはずだが。
 そう、戦争が過激になるにつれて金物の供出が強要されていたんだ。お寺の梵鐘はもとより線路もその対象になり、森屋から合渡橋までの線路は外されていた?でも、29年には復活していたとなると外す寸前にあったのか? どこかのお寺の梵鐘が解体工場・現場で事故を起こし、壊す(溶かす)ことが出来なくて「血染の梵鐘として戻ってきた。」と云った噂がそこここで囁かれていた時代であった。
 いずれにしても厳しい時代だった。